「問い」をみがく夏 ~Creative Learning~
こんにちは。福山暁の星女子中学校新コース推進プロジェクトです。
朝晩すっかり涼しくなり、夏の終わりを肌で感じる季節となりました。
今年度から、福山暁の星女子中学校では、子どもたち自身が自らの「学び方のタイプ」に合わせて自分のコースを選択する、新たなコース制がスタートしました。
現在、中学1年生は、来年度のコース選択に向けて、「まだ世界にない『問い』を生み出す力」の育成を目指す「Creative Learningコース」型の授業と、「質の高い自学自習能力」の育成を目指す「Update Learningコース」型の授業の双方を体験しているところです。
暁の星の中学1年生が、この夏取り組んだのが、「Creative Learningコース」型の授業での「『問い』をみがく」活動。
今回は、その取り組みについてレポートします。
「問い」の解像度を上げる
1学期の前半、新コースのCreative Learningコース型の授業では、「問い」に焦点を当てた活動が展開されました。
その中で、子どもたちは「今、自分が大切にしたい『問い』」を設定しています(詳しくは「note」の「『問い』を学ぶ授業」を参照ください)。
夏休みに向けて行ったのは、設定した「自分が大切にしたい『問い』」=「私の今の問い」をみがき上げていく活動です。
子どもたちは自身が設定した「私の今の問い」を出発点に、仮説を立てたり、具体例を挙げたり、さらに「問い」を重ねたりしながら、自分自身の「問い」に対して徹底的に向き合います。これが、「『問い』をみがく」活動です。
近年、ビジネスの世界では「解像度」という言葉が盛んに用いられるようになりました。
物事の理解度や表現の繊細さ、思考の明晰さを「解像度」という言葉で表すようです。「解像度」を上げるには、「深さ」の観点(必要に応じて、抽象化・具体化が自由にできる)と「広さ」の観点(同じものごとを角度を変えて眺めることができる)の双方が必要です。
「『問い』をみがく活動」では、自身の「問い」を起点に、「問いノート」を使って、それを抽象化したり具体化したり、別角度から新たな「問い」をぶつけてみたりします。これはまさに、「『問い』の解像度を上げる」ための活動と言えるでしょう。
生成AIの時代に学校で学ぶ意味
「『問い』をみがく活動」=「『問い』の解像度を上げる活動」は、自分ひとりではなかなか大変です。どうしても今ある自分の知識やこれまでの自分の体験に縛られてしまうので、発想の深まりや広がりに限界があるからです。
そこで、この「『問い』をみがく活動」は、自分ひとりで行うだけなく、グループのメンバーとも協働で行いました。
具体的には、だれかの「今の問い」を見てさらに思い浮かんだ「問い」があれば赤の付箋に、思いついた「答え」があれば青の付箋に書いて、起点となる「問い」を設定した当事者にプレゼントします。
また、授業の最後には「夏休みの課題」が提示され、それは、夏休み中に5人以上の人に自分の「問い」をみがいてもらうことでした。
この授業を設計するうえで、私たちが特に大切にしたいと考えたのが「誰かの『問い』」に別の人がさらに「問い」を重ねる「問い重ね」の活動です。
子どもたちは学校生活の中で、これまで教師からの「問い」に対して「答え(正解)」を出す訓練を繰り返し行ってきました。教室の中で教師から発せられる「問い」は、誰かが「答え(正解)」を提示した段階で完結してしまい、輝きを失います。
さらに現在では、Chat GPTをはじめとした生成AIが、どんな「問い」にもわずかな時間でそれらしい「答え」を与えてくれます。
そんな時代において、学校が果たすべき役割は、子どもたちに「答え」を与えることではないはずです。
今回の活動を通して子どもたちは、自分の発した「問い」に、友達が、家族や知人がさらに別の「問い」をぶつけることで、自分の「問い」が次々と姿を変え、予想もしなかったような場所にたどりつく体験をしました。
「私の今の問い」は、まさに今の自分の「興味・関心」そのものです。この「問い」に誰かが「問い」を重ねてくれることは、自分の「興味・関心」が誰かの「興味・関心」と交差して広がったことを意味します。
これは生成AIとの対話では決して得られない、喜びを伴う体験です。
生成AIの時代に学校が果たすべき大きな役割は、「私の問い」に「誰かの問い」がどんどん重なり、豊かに響き出すような環境を提供することだと私たちは考えています。
だからこそ、このCreative Learning型の授業では、次のようなグランド・ルールの徹底が意識されています。
「答えを出した人」ではなく「問いを持った人」を求める時代
夏休みの「問いみがき」の活動を経た、子どもたちの「問い」をいくつか紹介したいと思います。
・法律のない世界はどうなる?
・「当たり前」はどんな人が開発したのだろうか?
・しょーもないものにかぎって大ヒットするのはなぜ?
・ゴキブリにケンカを売ったらどうなる?
・もしも「におい」がなくなったらどうなるのか?
・戦国大名に旧石器時代~現代までの日本史の漫画を献上したらどうなる?
・言葉に助けられる瞬間はいつ?
いずれも、聞くものをワクワクさせるような素敵な「問い」です。
ただ、一方でこうした「問い」を目の当たりにした際、大人たちの次のような醒めた反応も予想されます。
「そんな意味のないこと考えてるヒマがあったら、英単語の一つでも覚えなさい!」
こうした「問い」を「意味のないこと」と考える背景には、このような「問い」がテストの得点にはつながらないもので、もっと言えば高校入試や大学入試には無関係なものだという思い込みがあるのだと思います。
しかし、「正解」や「定番の答え」ならばAIが瞬時に教えてくれる時代にあって、人間に求めらるのは「創造性」=「既存の事物を、『問い』を持って眺めることで、新たな価値を創造する力」です。
社会で求められる資質・能力が変われば、大学入試で問われる力も自ずと変化してゆきます。
近年では、従来型のペーパーテストを中心とした「一般選抜」から、受験生のより多様な資質・能力を評価する「総合型選抜」「学校推薦型選抜」へと、急速に大学入試の形態も変わってきています。
例えば、慶應義塾大学SFCは「総合型選抜(AO入試)」について、次のような見解を発表しています。
「総合政策学部と環境情報学部のAO入試では、大学入学以前に人生を賭けて挑むに値する目標を発見し、それに向けて努力を積み重ね、すでに実績がある人を求めています。いわゆる一芸入試ではありません。アイディアコンテストでもありません。」
「人生を賭けて挑むに値する目標」は言葉を換えれば、「人生を賭けて探究したいと思う『問い』」とも言えます。
そして、慶應義塾大学は「実績」という言葉に注釈をつけ、これは「本人の努力を継時的に蓄積したもの」であり、必ずしも全国大会出場やコンクール入賞の結果・経歴を意味するものではないことを明示しています。
つまり、これからの大学入試(総合型選抜)で求められるのは、「答え(結果)を出した人」というよりもむしろ、「面白い『問い』を持ち、その『問い』とどこまでも向き合い、みがき続ける姿勢を持った人」であると言えるでしょう。
自分が大切にしている「問い」を、大人によって「意味のないものだ」と否定された生徒が、今後も自分の「問い」を大事にみがき続けられるかと言えば、甚だ疑問です。
Creative Learning型授業の「グランド・ルール」を強く意識すべきは、「生徒たち」よりも、むしろ生徒の身近にいる私たち「大人」なのかもしれません。
「問い」をみがき続けた先に……
これは、現在、本校の高校3年生の生徒が高校1年生で個人研究を行う際に立てた「問い」です。
この子は、趣味で乗馬をやっていて、その個人的な興味・関心がこのような「問い」につながりました。
現実に「馬で学校に来る」シチュエーションはなかなか想定できませんから、その意味でこの「問い」は現実味に乏しく、探究する価値を見出しにくい「問い」だと評価されるのかもしれません。
でも、この生徒は、具体的にこの「問い」をみがき続けました。
「馬で登下校する際、道路のどんな箇所が問題か?」「馬で登下校する際、問題になる法律は?」「自分が授業を受けている間、馬はどうしておくべきか?」……。
こうして「問い」を重ね、「問い」をみがき上げてゆく中で、この子は現在の社会が「馬で登下校しようと思う人」にとって、いかに不都合にできているかを痛感します。
そして、自分は「馬で登下校するには?」という「問い」だが、「問い」の角度を変えれば「車イスで登下校するには?」「盲導犬を連れて登下校するには?」という「問い」も成立し得ること、抽象度を上げれば「マイノリティとされる人たちが生きやすい社会とは?」という「問い」も成立し得ることを、「自分事」として発見します。
この生徒はその後、「認知症の人が過ごしやすい社会にするためには?」という「問い」を掲げて探究活動を行い、若者たちの「認知症」への理解を進めるために、校内で講演会を企画したり、同級生や下級生に自身がファシリテーターとなって授業を行うなど、積極的に活動しています。
また、現在は認知症に向き合う医師を目指して、受験勉強にも励んでいます。
一見、現実味に乏しいように思える「問い」であっても、それをみがき続けることで、自分の人生の方向性が定まったり、それを実現するためのモチベーションが手に入ったりすることが多くあります。
「問い」は、「自分の人生を駆動させるエンジンであり、ハンドルであり、アクセルである」と言えるのかもしれません。
中学1年生 ある生徒の「メモ書き」
「『問い』をみがく活動」を行った中学1年生のある生徒が、振り返り用紙の隅に、イラストつきで次のようなメモ書きを残していました。
問いの力は、誰かの役に立つかもしれない。
なにか変わるかもしれない。
違う考え方や新しい問いにたどりつけるかもしれない。
自分だけじゃない。
世界も変えられるかもしれない。
「問い」の力、「問い」の役割のすべてが、美しいことばでこのメモ書きに記されています。
こうした子どもたちが「問い」の力で、世界をどんな素敵なものに変えてくれるのか、今から楽しみでなりません。
おわりに
夏休みを経て「みがき上げられた『問い』」を子どもたちにどうアウトプットしてもらい、他の人と共有してもらおうか……、随分と悩みました。
教室の前に出て、一人ひとりが「問い」についてプレゼンを行うという形態も考えましたが、それだと教室の後ろにいる教師の評価を気にして、教師の求める「正解」を出そうとする、型にはまったアウトプットになりかねない。
「指導者・評価者」としての教師から「支援者」としての教師への役割の変更……。これを実現する仕掛けとして私たちが考えた活動を、次回、ご報告します。